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ブレードランナー2049の感想

あらすじ

映画「ブレードランナー 2049」は1982年に公開された映画「ブレードランナー」(監督: リドリー・スコット)の続編となる、2017年に公開された映画である。この映画における世界では、レプリカントと呼ばれる労働力を増やすために開発されたアンドロイドが人間の生活を助けている。主人公はレプリカントの新型で、欠陥のある旧型レプリカントを処分・解体する職務に就いていた。主人公はいつもと同じように、ある旧型レプリカントの解体ミッションを完遂したのだが、そのレプリカントの住居の庭で、帝王切開の合併症で死亡したと見られる女性の遺骨が見つかり、その遺骨には製造番号が刻まれていたのだ。つまり、そのレプリカントは人間ではないのにもかかわらず子供を出産したのだ。実は、旧型レプリカントを製造していたが今は倒産してしまった企業が、レプリカントの生殖技術を実現させていたのだ。このことから、主人公が所属する派閥は社会混乱をもたらしかねないこの事実を隠蔽するために、生まれてきた子供も含むあらゆる痕跡を消そうとするが、一方で新型レプリカントの製造元企業はレプリカントの生殖技術を得る目的で子供を見つけようと活動を始めた。

 ヒトの定義

この映画において主軸となる、人造人間であるレプリカントが受胎するというイベントは、この映画を手がけた監督の前作からインスパイアされたアイディアなのであろうが、このアイディアは人というアイデンティティを定義するものは何だろうか、という疑問を提起している。レプリカントは基本的に胚から育っているわけではない。彼らは人間によって素材を組み合わせることで作られている。彼らの血は人工的に注入されたものであるし、ボディの素材も完全に人間と同じ容姿で触り心地も人間の肌と変わらないが、それらは人間の手で(あるいは機械で)結合して組み立てられたものである。つまり、クローンのように生物的に作られたものではないが、完全に人間と容姿は変わらないのだ。それにもかかわらず、ある旧型レプリカントは受胎した。そこがこの映画のオリジナリティであり、議論するに値する提起である。

また、ヒトというアイデンティティを議論するに値する登場人物がもう一人いる。それは体を持たないAIだ。彼女は(映画では女性)は主人公の恋人役なのであるが、物質的な体を持たずホログラムとしての体を持つ。映画の中の彼女は、鑑賞者の主観においてだが、まるで人間が恋人を愛しているのと変わらないのだ。最終的に主人公のために犠牲になってしまうのだが、果たして映画におけるAIはヒトとどう違うのか。

ヒトをどう定義するか。映画における一般大衆は、完全に純粋に胚から育ったモノをヒトと捉えていた。それ以外のモノに関してはどんなに知性を感じようと、容姿がまるで似ていようと、彼らがみなすヒトと同じようには扱っていなかった。映画の中でレプリカントはヒトと外見的には区別がつかないが、ほかの方法でヒトとレプリカントの区別をつけようとしていた。それを映画の中では、「フォークト・カンプフ法」と呼んでいた。映画の中の世論ではレプリカントはヒトと同等の感情移入能力がない、あるいは希薄とみなされていた。この性格を利用して、レプリカントに倫理的にショックな言葉を投げかけ、反応が一定レベルよりも低かった場合にレプリカントと判断する、という手法を取っていた。また、レプリカントの活動に定期的にこの試験を受けることを義務づけ、この試験で一定レベル以上の反応をレプリカントが見せた場合に矯正治療期間を設け、ここで修正出来なかった場合は、解任(抹殺)処分とした。しかしながら、主人公は操作の過程で感情のブレが高まってしまい、試験に不合格となってしまった(その後、逃走して事件の真相を再び追うのであるが)。

ここで疑問なのだが、レプリカントとヒトを区別する方法として、感情の起伏のブレを計測に使っているが、それにパスしないレプリカントがいる時点で、その基準は間違っているから新しい基準を考えなければいけないという結論になぜ至らないのかということである。しかし、現実でも思考しなければならないのにもかかわらず、ヒトの精神的な障壁のためにそれを認めることができないという事例が見受けられる。例えばハンナ・アーレントが「アイヒマンは普通の人と変わらない。ヒトはある状況下に置かれるとその行動がどんなに卑劣であろうと盲目的にしたがってしまうことがある。」と主張したことに対し、世論が大反対した出来事を鑑みれば、ヒトの非合理性を説明できるだろう。これと同じように映画においては、ヒトとレプリカントの容姿はほとんど同じで、かつ精神や感情も人間と等しいと認めることになってしまえば、ヒトであるという一種の選種思想のようなものが根本的に否定されてしまうため、どうしても認めることはできなかったのだろう。

何か創作物から議論をする場合、今回は「ヒトとは何か」という主題であるが、最終的な結論は基本的にアカデミックの分野の人であれば同じであるように感じる。ただ現実における人は、理屈は理解できても、それを感情的あるいは精神的な階層に落とし込むと、どうしてもその理屈を受け入れられないことがあるのだ。ではそこをどう扱うか。それが最も議論に値する主題であるのだろう。

 差別

私は最近のトレンドである、「AIにはできないがヒトにしかできないことは何か」という議論自体に疑問を感じる。なぜそこで人間とAIの区別をつけなければいけないのか。先ほど、議論すべきは理屈ではなくて人間の感情面だ、と主張したばかりであるのに今から理屈の話をしてしまうのは恐縮であるのだが。映画でヒロイン役として出てきたAIは物質的な体を持たず、ホログラムで表現されていた。しかしながら、ホログラムと言ってもスターウォーズなどで見るような若干霞んだ青いレーザーで表現されているようなものではなく、完全に見た目はそこに存在しているようにしか見えないものだ。実際、役者は現場でその場で演じていてそれを後から若干の加工でたまにピントがぶれる表現などを加えているのだろう。見た目は完全にそこに存在しているのだが、ホログラムだから触ることはできない。しかし、主人公を常に愛していて、他の人間の身体を借りて自分のホログラムをその身体と重ねて、主人公に温もりを感じさせようと試みたり、逃亡する主人公と一緒にいるために自らをクラウドから隔絶してハードウェアにメモリを写し、最終的に主人公をかばってハードウェア自体が壊れ完全に存在が消滅してしまう。この映画では人権的階層構造が表現されている。というのもヒトはレプリカントを蔑視しているが、レプリカントはAIを蔑視しているのだ。このことから、現実世界における古くからの人種差別となんら変わりないようだ。これを映画製作者が意図的に表現したのかは定かではないが、少なくとも鑑賞者にはそのように捉えられる。現実の世界におけるAI技術は映画におけるAIの様にはまだ進化していない。そもそも不可能であるかもしれない。少なくとも今現在実装されている如何なるアルゴリズムでも、映画の様に完全に人であるAIを実現させることは不可能だろう。アルゴリズムの詳細については今回は言及を避ける。しかしながら、映画における描写を鑑みると、そもそも「AIには出来ないが、ヒトにしか出来ない事」を探すことは、未来の新たなる差別を生み出すことに繋がりかねないのではないか。そもそもヒトにしか出来ない事を探すことは、様々なバイアスがかかり、最終的に既存の選民思想の様な考え方を新たに生み出してしまうのではないか。真意は定かではないが、映画はこの様な課題を提起していると感じた。

 まとめ

映画から様々な提起を連想できるが、この映画は他の生命倫理に関する映画と比較すると直接的な主張が無いように感じられた。それがなぜ出来たのかを考えると、映像表現や、主人公とAIの純愛などによって、他の映画でははっきりと主張されているディストピア的世界観をより中庸的に表現していたからではないか。

 

【引用参考文献・URL】